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『殺人出産』感想 読んだら「加爾基××栗ノ花」を聴きたくなった

 

村田沙耶香さんの『殺人出産』を読みました。

 

 

 

この本を読み終わったとき、椎名林檎のアルバム「加爾基××栗ノ花」(伏字にしました)を聴きたくなったので、久しぶりに聴いた。

「加爾基××栗ノ花」の最後の曲「葬列」が、これまでの曲の音が大量に重なって押し寄せてきて最後にプツンと途切れて終わるんだけど、それが死の間際に走馬灯が流れて行って、ふと意識が途切れるみたいだなと昔から思ってた。その様子が、この『殺人出産』の最後の章「余命」の終わり方に似ていると思った。

(「葬列」がプツンと途切れているのはアルバム全体を44分44秒にするためというのは知ってますけどね、一応(オタク特有の早口))

 

「カルキ××栗ノ花」のアルバムは輪廻転生をテーマにしてるらしい。人間が産まれて、死んで、また産まれて……という円環の話。

人間を産むこと、殺すこと、そして性にかかわる行為について描かれている『殺人出産』と、「加爾基××栗ノ花」は雰囲気が似てると思いました。どちらもとても好きです。

 

『殺人出産』は4つの章で構成されています。最初の章であり、本のタイトルにもなっている「殺人出産」のあらすじを以下に(ネタバレなしで)簡単に書きます。

「今から100年前、殺人は悪だった。」主人公の育子が生きる世界では、殺人の意味は大きく異なるものになった。「産み人」となり、「10人産んだら一人殺してもいい」という殺人出産システムが導入された世界で、殺人を行う「産み人」は、命を生み出す尊い存在として崇められていた。

 

……この設定に惹かれて、私はこの本を一気読みしちゃいました。読んでよかった、好きな作品です。

 

 

以下は『殺人出産』のネタバレありの感想です。

(タイトルや作中の用語以外の言葉は色々と伏字にします)

 

 

 

 

 

 

 

「殺人出産」のストーリーの感想・考察

育子、環、早紀子、ミサキ それぞれの立ち位置

4人の登場人物たちの考え方、立場を以下に挙げてみる。

環は、今の世界が「正しい」と思っている(環は昔の世界では自分が「被害者」だったと思っている)。

早紀子は、昔の世界が「正しい」世界で、今の世界が間違っていて狂っていると思っている(今の世界では早紀子が「被害者」なのだと環は思っている)。

育子は、環と早紀子の真ん中、昔と今の世界の価値観のグラデーションの真ん中にいる存在。

ミサキは、今の世界の価値観しか知らない、未来に命を繋げていく存在。

 

環と早紀子の考えは対極の位置にある。育子はその真ん中にいて、環・育子・早紀子より下の世代であるミサキは今の世界の価値観しか知らない。

 

 

花と虫の命

環は、今の世界が正しい世界になって良かったと思っている。前の世界では×人は悪とされていたので、環は強い×意の願望を抱く自分自身を責めていた。今の世界では自分の×意は世界に命を生み出す養分になった、という環のセリフにある「養分」は、「産み人」として子を産むための「きっかけ」という意味であると同時に、作中に何度も登場する「花」と「虫」に繋がると思った。

葬儀で「死に人」に捧げられて骨の間で咲いた花と、一番最後のシーンで早紀子の身体から零れ落ちた蝉はリンクしていると思う。花も虫も「産み人」の×意=「養分」によって育ち、「死に人」の身体から生まれたという風にも見えると思った。

 

「花」と「虫」は、作中で人間の手の中で簡単に壊れてしまう命として描かれていた。そして人間の命もまた、人間の手で簡単に壊せる存在なのだから、花と虫と人間の命に何か違いがあるのか?と問われているような気がした。

環の病室から出た後の中庭のシーンで、育子が向日葵の上を歩く蟻を「入れ替え」ても、また元通りの光景が動き出した、という場面が示唆的で好きだ。人間も同じで、誰かが×んだら誰かが産まれて、そうやって「取り替え」られながら生き続けている、そのことは価値観が大きく変わったとしても今も昔も同じなのだという育子の考え方には納得させられた。

 

「殺人出産」のストーリーは、何が正しくて間違っていると思うのかという、2つの価値観(=正義)の対立だけで終わらないのが良かったと思う。2つの価値観の真ん中にいる育子が、どちらかが正しいと結論付けるのではなく、育子自身の新たな視点を持っているのが良かった。

 

 

祈り

中庭でのシーンは、向日葵と蟻の話以外にも重要な話がされていたと思う。育子と早紀子の会話で、育子は、大きな時間の流れの中で世界はグラデーションしていて、その中で2つの価値観は対極に見えても実は繋がっていて、今の世界の「正常」が一瞬の蜃気楼に感じるのだと言っていた。

ここで育子が言う「大きな時間の流れ」は、このあとのシーンでミサキが祈っていたもの、「大きな命の流れ」を感じると言っていたものに近いのではないだろうか。

育子は、人間が生き続けてきた過去から未来に続く途方もなく長い時間の中で、自分が今立っている位置のことを意識していると思う。

 

「私たちはいつ死ぬかわからない日々の中を生きている。いつ殺すともしれない日々の中を生きている。殺人のそばで、私たちは取り替えられながら生き続けている。きっと何千年も前から。」

(引用:村田沙耶香『殺人出産』)

 

ミサキと育子が祈るシーンが好きだ。

一人の人間が生きている短い間には感知できない、触れられない、何千年も前の過去や遠い未来、自分には遠く届かないものに対する思いは「祈り」になるのだと思った。

 

 

育子が決意した理由

環と育子は、幼い頃から二人だけの秘密(環の×人衝動、虫などの大量×害)を共有する共犯者だった。

環が「産み人」としての出産という義務を終えて、×人を実行するときに、育子も環の付き添いとして立ち会うことになる。育子は環に差し出されたナイフで早紀子の身体を切り裂いていく。まさに×人を実行している瞬間に、育子は正しい世界の中に生きていると感じる。

そして育子が「産み人」になる決意をするときに、姉の罪を共犯者である自分が引き受けるという理由ではないところが良いと思った。育子は今の世界で、環と自分の×人という行為が悪だとは考えていないから。

大きな時間の流れの中で人間は取り替えられながら生き続けている。その時間の中で、未来の別の価値観を抱く人々からは狂気と見なされるとしても、今の「正常」が一瞬の蜃気楼だとしても、この今の世界の「正常」であることの一部になりたい、というところに辿り着くのが良かった。

 

 

 

全体を通しての感想・考察

 

以下は「殺人出産」以外の章も含めての感想です。(ネタバレ含みます)

 

4つの章「殺人出産」、「トリプル」、「清潔な結婚」、「余命」のなかで、それぞれの章では別々の主人公が登場する。それぞれの世界はおそらく独立しているけれど、現在の世界では一般的で常識とされている価値観が、劇的に変容した世界に主人公たちが生きているという部分はすべての章に共通していると思った。「おそらく」と書いたのは、「殺人出産」の章の数百年後が「トリプル」の世界かもしれないし、その数百年後が「清潔な結婚」や「余命」の世界かもしれないと思ったから。

世界の価値観は簡単に変容するということが作品のテーマの一つだと思う。なので4つの章が完全に別の世界とは言い切れなくて、一つの世界の中で価値観がいくつも変容しているのかもしれない、そういう見方もできると思いました。(作者さんのインタビューとかは読んでないので、実際作者さんがどう思って書いてるのかはわからないですが……)

 

価値観が容易に変容する世界で、変わらないものは何か

一般的な常識とされている価値観が変わったときに、人々の思考や行動で変わるものと変わらないものがあり、変わらないもの=変えられないものは、普遍的で人間の本質的な部分であり、4つの章はその本質に気付かせてくれるストーリーだったと思う。

各章において、変容した価値観(今の価値観が、~の形に変わったらどうなるだろうか?という問い)と、それによって変わったこと、変わらないことは何なのか考えた。

 

「殺人出産」

「殺人出産」では、そのシステムが作られたこと自体が価値観の変容だと言える。殺人出産システムが作られ、導入されたとき、自分がこれまでに信じていた価値観・倫理観の変化に人間は意外にも簡単に適応でき、あっさりと世界は変容する。もちろんその変化に適合できない人もいる、ということが描かれていた。

早紀子が初めは昆×食を拒否していたが気付けば順応していたという描写は、価値観は簡単に変えられるし、変化に抗うのは難しいということの例の一つだと思う。

そのシステムがあったとしても変わらないことは、×人や×意(=死)は身近なものであること、人間は大きな時の流れの中で取り替えられながら生き続けていることだと描かれていたと思う。

育子は自分の抱いた×意が生きる希望になった経験を語っていた。×意を抱いたことのない人間はいないんじゃないか?という問いは否定できないし、普段意識していなくても死が身近にあることからは逃れられない、ということに気付かされる。

 

「トリプル」

「トリプル」では、生殖を目的としない性行為について、「2人(カップル)ではなく3人(トリプル)での恋愛・性行為が一般化した世界で、人間の行動や感情はどうなるだろうか?」という問いが設定されているように思う。

殺人出産の章で言及されているように、生殖を目的にしない性行為は、快楽の追求かもしれないし、相手への愛情を示す行動なのかもしれない。そのことは「カップル」でも「トリプル」であっても変わらないと思った。真弓が経験する「トリプル」の行為は、そのどちらの要素もありつつ、ある一定の形式とかテンプレートに則った行為のように見えた。真弓の言う「正しい行為」の正しさとは、トリプルの行為の形式や手順に沿っているということを言っているのかもしれない。

真弓は、「トリプル」を否定する自分の母親や、偶然目撃してしまった同級生のカップルとしての行為に対して、「私たちとは絶対に分かり合えない。違う生き物なんだ」と感じている。それに対する誠の「きっと、真弓も、お母さんも、友達も、三人とも清らかなんだ。だからほかの人の清潔な世界を受け入れることができないんだ。それだけだよ」というセリフは、身体的に、物理的に汚れていないことを指しているのではなくて、精神において、自分が正しいと信じるもの以外信じたくない、ほかの考え方を受け入れられないことを言っていると思った。「清潔な」というワードは次の章に繋がる言葉だけど、次の章での「清潔な」結婚というのは人間の行動や身体的な状態を指しているのに対して、誠は精神的な意味で言っているのではないかと思う。

 

「清潔な結婚」

「トリプル」は生殖を目的としない恋愛や性行為の話だった。「清潔な結婚」では、生殖を目的とする性行為がテーマで、「結婚というシステムにおいて、性的な関係を排除したうえで生殖しようとする場合何が起こるか?」という問いが設定されていると思う。

性的な関係を夫婦という二者間に持ち込まない場合、その関係の外側に位置する女(夫の恋人)がその外側の立ち位置を維持できずに暴走する、というのは『1122』という漫画でも描かれていた。

ミズキがカフェの外を行き交う人を見ながら思ったことがこの章での普遍的なテーマなのかなと思う。人の誕生には受精が必要で、受精には男女2人による生殖行為が必要であるということは、生殖行為までの過程がどうであれ絶対変わらないということ。

性的なものでつながらない夫婦の「清潔な」生殖行為として、作中ではクリーン・ブリードというものが登場していた。病院でクリーン・ブリードの処置を受けているシーンは、真剣で真面目なのになぜか笑ってしまうような感じがした。『ハンドメイズ・テイル』(原作は読みかけでドラマ版しか観てないですが)でも「儀式」の様子として描かれていたように、二人の人間の間で生殖を目的とした行為を行うときに、性的興奮や快楽の追求をできるだけ排除した場合、残るのは必死になって汗を流してる人間の身体の動きだけで、その動きから滑稽さが感じられるのかなと思った。

 

「余命」

「余命」で設定されている問いは、「人間が死なない身体を手に入れたらどうなるか?」ということだと思う。人間が死ななくなったことで、死が自然にやってくるものではなくなり、死のタイミングと死に方を自分で決めないといけなくなった、という設定が面白いと思った。そういう世界で、死ぬときにも女性らしさや男性らしさ、年齢に相応しいか、センスがいいか悪いか、という体裁を気にしたり見栄をはったりしないといけないという苦労が描かれていた。

今の世界でも人間をがんじがらめにしている、他人からどう思われるか?ということから解放されることはないし、そして死なない身体を手に入れたとしても、人間が死から完全に解放されることはないということに気付かされるストーリーだった。

 

 

まとめ(と余談)

「母性」という価値基準

『殺人出産』のあらすじを最初に見たとき、私は『ハンドメイズ・テイル』みたいに、「産み人」が産んだ子を手放せなくなる話かと予想したけど、違った。母親はどんな状況であっても産んだ子を手放したくないだろう、という考えを私が持っているのかもしれないし、ということは私も母性愛神話と呼ばれるようなものを多少は信じているのかもしれないという、自分の認識に気付かされた。

「母性」については、育子の母親の世代には母性とか遺伝子とかが信じられていた時代もあった(けど、今は違う)という形で少し言及されてただけで、母性という価値基準で作中のメインの登場人物たちが思考してないのが良かったと思う。

「殺人出産」システムがある世界では、少なくとも環は母性愛神話から自由になっている。環は「産み人」としての役割を果たしているだけで、産むことについてなんの価値判断もしていない。育子と環は×意(=×したいという意志)について語り合うけど、産むこと(=産みたいという意志)については語らない。産みたいという意志を持っていたのは早紀子だった。「死に人」として指名された早紀子が必死に逃げようとしたのはその意志があったからだ。(そしてたぶん早紀子は母性愛神話を信じていると思う。)そういう意味でも、環と早紀子は対極にいる関係として描かれてたんだなと気付いた。

 

人間が人間を産むということ

男も人工子宮で産めるようになったという描写があったが、それなら、受精から出産まで全部の過程を人間の体外で人工子宮が担ってくれるパターンもあると思うが、描かれていなかった。このストーリーは人間が人間を産むということが大きなテーマだから、「産む」という行為が人間から切り離されること(=体外の人工子宮)はまた別のテーマなんだなと思った。そのテーマについては別の作品を探してみたいと思った。

(もちろん私は『ガンダムSEED』で倫理観を培ったので、人工子宮の何が悪いのか、感覚としてあんまりわかってない。そういう視点で別の作品を見てみたい。)

 

 

あと、どこにも書くタイミングがなかったから最後に書くけど、「殺人出産」の最後の蝉のシーンは、『ひぐらしのなく頃に』の旧アニメのエンディング(why, or why not)で、ひぐらしの壊れた体の周りに赤い血が流れてくるのを連想した、ということをどうしても言いたかった。笑