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『八月の母』感想 母性というものについて考えた

早見和真さんの『八月の母』を読みました。

 

八月は母の匂いがする。
八月は、血の匂いがする。

 

 

 

私が美容院でたまたま読んでいた雑誌の「今月の一冊」みたいなコーナで、作者さんのコメントが載っていたのが目に留まりました。
「母性はすばらしく価値あるものであり、そして母性は女性に生まれながらにして備わっているものである、という考えは男性が女性に押しつけてきたものではないか」
という内容のことを、男性である作者さんがおっしゃっていたのが印象に残りました。
どうしても読まないといけない気がして読みはじめて、読み終わった後もずっと頭の隅でこの物語のことを考えています。私にとってはそれほどに衝撃的であり、なぜか惹きつけられる物語でした。

 

 

以下、ストーリーのネタバレを含む感想です。


『八月の母』は実在する事件をモデルにしたフィクション作品だそうです。今回私の感想はあくまでフィクションとしての物語について考えたものになります。

 

 

男尊女卑の社会、不平等な社会

『八月の母』では、男尊女卑の価値観に苦しめられる女性たちの姿が多くのシーンで描かれていた。
美智子の父親はまさしく、男は女よりも無条件に偉いので偉そうに振る舞っても良い、という考え方を体現しているようだった。そのような男の振る舞いに対して、表面的に反発することのなかった美智子の祖母と美智子の母の態度は、男尊女卑を抱えた社会のあり方に疑問を抱くことなく、「そういうもの」として受け入れているように見える。(このような男尊女卑を許容する男と女の態度について、この社会を脱出して東京に出た外からの視点である紘子の兄が指摘していた。)
美智子もまた、女は男に泣かされるようにこの世界はできているのだから、男に立ち向かうだけ無駄なのだ、という考え方を内面化して生きている。男たちが紘子を性的な話題で笑いものにし、紘子が男たちに反論しようとしたのを止めた美智子の言葉に表れている。


「……結局最後は泣かされるんよ。もうそういうふうにできとんのよ、男と女って。こいつらは逃げられるんやもん。勝手に欲情して、出すもん出したら、あとはもう知らん顔できる生き物なんよ。重いもん背負わされるのはいつも女の方や。そんなん最初からフェアやない。フェアやないケンカならせん方がマシ。なんか間違ったこと言うとる?」


悲しいことに、美智子の言いたいことに確かに私も共感してしまう。性行為は男と女が対等な立場で向き合うものであるはずなのに、妊娠するのは女の方で、望まない妊娠による中絶で身体を痛める大きなリスクを背負わされるのは女だけ。その事実に、私もどうしようもなく不平等だと感じるし、こういう悲しみを男性に分かってもらうのは難しいんだろうな、という諦めたくなる気持ちもある。
紘子は美智子の言葉に対して瞬時に言い返すことができず、悔しくて仕方がなかった、そしてなぜかエリカを汚された気持ちになった、と描写されている。私もこのシーンを読んでいてなぜかとても悲しくなった。もし私が美智子に言い返すとしたら、何を言えるだろうと考えた。
まず、美智子は、男に対してどんなに無力感を抱いていたとしても、紘子が男たちに立ち向かうのを止めてはいけなかったと思う。美智子は紘子の味方になるような言動をすべきだったと思う。こんなに不平等な世界なのだから、せめて女同士で結託して、失礼なことを抜かす男たちに立ち向かうくらいはしてもいいんじゃないかと私は思う。そのやり方としては、先に述べた不平等な事実を男たちに対して説き、その不平等さを理解して行動を改めてくれる男性を少しでも増やせたらいいんじゃないかな、と思った。
別のシーンでも、性差による不平等が描かれていた。紘子は、避妊は女の役目だと言って避妊具を持たせてくれたエリカに反発したい気持ちを持っていた。「男こそが避妊の役目を負うべきだ」と考える紘子の気持ちはすごくわかるし、私もそう思う。でも現状としてはすべての男性が避妊の責任をきちんと果たしてくれるわけではなく、女性は自分の身を守るために自衛することを余儀なくされている。(これは私の個人的体験にも基づいた考えでもある……)こういった現状を改善するためにも、男性たちに身体的な不平等を理解してもらって、男女でお互いに性について不満なく関係を持てるようになればいいなと思う。

 

男女間の格差

作中では男女間の格差についても描かれていた。
美智子の母は、夫を亡くした後経済力を奪われた女性が男性にすがる道しか選べなかった姿として描かれている。その後美智子は母親の交際相手からの性暴力を受け、母親は娘が交際相手からの性的な視線に晒されることに対して嫉妬し娘に敵愾心を抱いていた、という痛ましい筋道を辿る。
これは物語の中だけで起きている話ではなくて、美智子と同じ境遇の女性たちがたくさんいることを思うと本当に胸が痛い。日本における男女間の賃金格差が大きいことはさまざまな統計で示されている通りだが、この格差がなくならない限りはこのような女性たちの苦しみを取り除くことはできないと思った。
また、エリカの小学校の担任教師である村上とエリカの会話で、勉強することの意味を説いた村上に対し、エリカは美智子から、「女の子は勉強しなくていい、男に愛され続けるのが女の幸せ」と教えられたことを話した。
村上は、エリカ本人や美智子だけでなく、「その先の、さらに先から連綿と続く女たちの長い物語を感じずにはいられなかった」と書かれている。
ここで述べられている「女の子は勉強しなくていい」という考え方は、男女間の賃金格差を固定することに寄与しているのではないかと思う。(そういった考え方を持って生きている人たちの人生を否定する意図はない。)
経済的自立の難しい女性たちは家庭内に閉じ込められることになり、逃げられなくなってしまう。そのような事態になって誰が得をするのか?と考えたとき、女性たちに家事や育児を押し付けておきたい、そうしておいたほうが都合の良い男たちがいるのだと思う。
そしてその男たちにとっては、「母性」というのは都合良く使えるワードなのだと思う。作中で香織が指摘した通りである。


母性というものについて

作中では、複数の登場人物が母性について語っている。
村上は、母性は母親になってはじめて得るものではなく、女は母性を生まれながらにして身につけているのだと言う。
これは村上自身が少女に対し欲望を抱いてしまうことを都合良く正当化するための言説でしかない。私はこの考え方を否定したい。

香織の考えは以下のようにまとめられる。
母性は男によって価値あるものだと洗脳され、女たちにすり込まれたもの。大人にならないまま母親になった女が、「持っていなくてはならない」と信じて翻弄される。母性は本能ではない。偽物の母性は子どもへの献身などは簡単に置き去りにできるし、子どもを殺すことだってある。

紘子の考えは以下の通りだ。
香織は母親に期待している。期待するから失望する、裏切られたと感じる。母親に似ているエリカにも期待している。
母性は本能である。子供を産んでいない自分にも母性は備わっている。自分の命に代えても陽向を守ることができるから。

正直、上記の3人の母性についての考え方で私が100パーセント同意できるものはない。
紘子が辿った結末は究極の献身だが、それが母性による行動だとは断定できないのではないかと思った。紘子も母性というものを過剰に評価しすぎのような気がする。紘子の行動を呼び起こしたのが本能的に備わったものだとして、それは母性とは別の、個人的な人間性のようなものと言うべきではないかと思った。その人間性によって、子どもや他人に対して自己犠牲的な行動をとることかできる人もいればできない人もいるのではないか。そこには性別も関係なくて、あくまで個人的な性質によるのではないかというのが私の考えだ。

「女は母性を生まれながらにして身につけている」という言説を私が否定したい理由は他にもある。紘子の究極の献身と比すると小さな例えではあるが、たとえば、私が飼い猫に愛情を持って接し世話をしていることに対し、「やっぱりあなたは女だから、誰かの母親じゃなくても母性を持ってるんだね」とか言われたらとても腹が立つと思う。私が飼い猫を愛するのは私だからであって、女だからではない!と言いたくなる。それに、じゃあ男はどうなんだ?私の夫もその飼い猫を愛しているが、男がペットを愛情を持って世話しているのは母性だと言わないのか?と言いたくなると思う。

そこでさらに私の頭に浮かんだのは、そもそも「母性」とか「父性」とか誰かが定義した言葉は、生物学的な性別に根ざした話ではなくて、社会的に意味付けされているだけなのではないか?という考えだ。つまり、母性や父性と言った言葉に込められた意味はジェンダーロールに紐付いていて、社会的に女や男に期待されて押し付けられたものなのではないか?と思った。(これについては私は詳しくないので、学術的にはどういう風に説明されるのか調べてみたい……)

 

 

誰かのせいにしないで、自分の人生を生きましょうというメッセージ

この物語を通じて語られていたのは、上記のメッセージだと私は思った。紘子が陽向に向けた言葉にそのまま表れていたし、エリカの育て方について自分を正当化する美智子に対して村上が心の中で語っていた言葉にも表れていた。

「自分の人生を子どもに押し付けることが正しいはずがない。自分はこう生きてきた、だからいま幸せだ。そう思うのは本人の勝手だが、だから子どもも同じように育ててればいいというわけではない。」

私は村上の母性についての考えは肯定できないが、この言葉には同意したい。自分と子どもの人生を同一視してしまう親は多くいると思うが(私の母親も部分的にせよそのような言動で私に接していたと思う)、そのような親の考え方は村上の言う通り否定されるべきだと私は思う。
美智子もエリカも自分の娘に対して、「自分がこの子を幸せにしてみせるし、この子が私を幸せにしてくれる」という思いを抱いていた。娘が自分を幸せにしてくれると考えるのは、自分で自分の人生の責任を負わずに子どもに背負わせることに繋がる。作中のラストシーンでは、陽向に金を無心するエリカに対して陽向がノーを突き付けている。ここではエリカと陽向で母娘の関係を続けずに、関係を断絶することが陽向とエリカ双方の人生にとってプラスになるのだと思った。陽向がこの選択をできたのは、紘子が伝えたかった言葉をきちんと受け止められているからなのだと思う。

結局、男も子どもも自分を幸せにはしてくれなくて、自分を幸せにできるのは自分だけなんだろうと思う。ラストシーンでエリカがそれに気付いていなかったのは悲しかったが、エリカがここから誰かのせいにせずに自分の人生を生きられることを信じたいと思った。


私と母との関係について

『八月の母』は、私と母との関係について思い起こさせる物語だった。
これは個人的な経験の話だが、私の母は教育熱心なあまり、ときに毒親的な発言をする人だったと客観的に過去を振り返って思う。紘子の母親の言葉である「お母さんをもうこれ以上悲しませないで」というのは私も同じ言葉を浴びせられたことがあるし、「お母さんのことをかわいそうだと思わないの?」とか「私たち親子はなんでこの組み合わせだったんだろう。もっと優秀な子だったら私も失望させられずに済んだし、もっと優しいお母さんだったらあなたも期待されずに済んだのにね」みたいな母からの言葉たちは今でも私の頭の中に消えずに残っている。母は世間的に優秀といわれる大学を出ているのだが、娘である私にもそれと全く同じ道を辿ってほしかったんだと思う。結果的に私は母の期待とは異なる別の道を行くことになったのだが、そのおかげで、母は私に自分の人生の続きを押し付けようとしていたんだなということに私は自力で気付くことができたと思う。そしてそういった母の過剰な期待からの言葉は間違いなく私にとって毒になる言葉だったと思うし、今でも完全に「許した」とは私は思えない。だが、母にとっては初めての子育てであり、「母親」になる前の母はいまの私と変わらぬ女性として生きていた人だったんだよな、と思うと母を「許す」という気持ちも抱けるような気がしていた。
そう、「母を許す」という思いは、『八月の母』に出会う前から私の頭の中にたしかにあった。そして私の考えと同様のことが『八月の母』では紘子の兄の言葉によって明確に表現されていて、私は本当に救われるような気持ちになった。私が自力でたどりついた「母を許す」という感情をそのまま肯定してもらったような気がした。
私の個人的な経験と、『八月の母』で表現されていたものを合わせて考えると、女は生まれながらに母性を備えているのではなく、人生の途中でたまたま子供を産んだ女が、子育ての途中で必死にもがきながら「母親」というものになっていくだけなのではないだろうかと思う。そして子どもを愛し育てられるかどうかは個人の人間性によるところが大きく、「女はみな生まれつき母性を持っているはずだ」という言葉で簡単に語るのは間違っていると思った。

 


おわりに

『八月の母』は、私が自分の母とのこれまでとこれからの関係について客観的・主観的に考えて、こうして文章にする機会を与えてくれる作品でした。

欲を言うと、上原の心情についてもっと知りたかったです。上原は美智子、エリカ、陽向、そして紘子についての顛末をどういう心情で受け止めているのかを知りたいと思いました。

本当に読んでよかったと思います。

いつか(その日が来るかわからないけど)私が子どもを産むことがあってこの作品を読み返してみたら、そのときにはまた今とは違う気付きがあるのだろうと思いました。

 

(今日は「母の日」なので、どうしてもこの日にこのブログ記事を完成させたかった。。。!)